本編の上映前にキム・ギドク監督のビデオメッセージが二分間流れた。『アリラン』で舞台になった小屋で撮影し、この作品についての概要や要点を説明してくれた。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞、さらに今年の韓国の青龍映画賞で最優秀作品賞に選ばれた。今までの作品と比べて観やすいし、理解しやすい作品になっている。日本では、来年の夏に渋谷のBunkamuraル・シネマで一般上映する予定だそうだ。
ダッシュで記述してアップしたので、後から追記及び編集が行われるかもしれない。ミソンの正体をわざと伏せる形で記述したり、中盤から終盤にかけて様々な点で気になるところがあり、記載していいか迷いやめたからだ。何より映画祭中で明日も通うのでしっかり記述する時間がない。
ピエタ
制作年:2012年
監督:キム・ギドク
出演:チョ・ミンス、イ・ジョンジン、ウ・ギホン、カン・ウンジン
ジャンル:ヒューマンドラマ
鑑賞:第13回東京フィルメックス映画祭
債権業者で働くガンド(イ・ジョンジン)は、借金の取り立てをしており、主に零細な町工場の主人たちから返済を求めている。債権業者は、借りたお金の10倍の利息を取るため、債務者たちは日々借金が膨らんでいくことで返済が困難になっていく。表情を変えないで借金の取り立てをするガンドは、債務者が死亡すると面倒なことになるので、腕や足を怪我して障害者になれば保険金が下りるから、その保険金で借金を返済することをしている。ある日、ガンドが食事用に生きている鶏を取り逃がしたとき、後ろにいた女性ミソン(チョ・ミンス)が鶏を捕まえてガンドに手渡す。ガンドがアパートで鶏をさばいて食事をしているとき、ミソンがガンドの部屋に入ってきて、食器を洗い出し、風呂場を掃除したり、奇妙な行動を取り出す。ガンドは、ミソンを追い出すが家の外でつきまとい、外で再び二人が遭遇する。ミソンは、ガンドへ30年前に別れた母であることを告げる。ミソンは、ガンドに鰻を渡し、鰻にミソンの電話番号のふだを巻きつけて、連絡を待っている。始めは信じていなかったガンドは、ミソンに電話をして、会うことになり、借金の取り立てをするガンドの後ろにミソンがついていくようになり、ついに一緒に生活することになる。果たして、二人の関係は本当に親子なのか、ミソンと出会うことで変化していくガンド、お金の貸し借りで人生が狂う人たちのお話。
監督は、『悲夢』『アリラン』のキム・ギドク監督。
出演は、母と名乗る女性ミソンを演じるのは『マン?』『天国までの60日 (原題:少年、天国へ行く)』のチョ・ミンス、債権業者のガンドを演じるのは『取り戻せない』『ワンダフル・ラジオ』のイ・ジョンジン、フンチョルを演じるのは『星から来た男 (原題:スーパーマンだった男)』『私の友人、彼の妻』のウ・ギホン、フンチョル夫人を演じるのは『ムサン日記~白い犬 (原題:茂山日記)』『神弓 -KAMIYUMI- (原題:最終兵器 弓)』のカン・ウンジン、ケソンを演じるのは『依頼人』『折れた矢』のチョ・ジェリョン。
悪魔のような取り立てをするガンド、母親と名乗る女性ミソンがガンドと出会うことで、今までの厳しい取り立てが緩くなっていき、ミソンの母性からガンドが人間らしい感情が芽生えていく姿を映し出している。主は、母子の物語ではなく、お金という人間を狂わす仕組みをつくり上げた資本主義に対して鋭く突いている。上映前に監督のビデオメッセージが上映され、「資本主義」をテーマにしていることを言及している。
零細な町工場の主人たちは、ガンドが取り立てにくることをいつも恐れているのである。夫婦で部品会社を切り盛りしている夫フンチョル(ウ・ギホン)と妻(カン・ウンジン)は、借金が返済できないことで妻が体で返そうとしても応じず、夫フンチョルに対して腕を工作機械に突っ込んで、腕を失うことで障害者となりその保険金で返済を済ませる。母子で部品会社を経営する息子ケソン(チョ・ジェリョン)と母は、借金が返済できないことで老いた母が見ているまえで殴りつけ、廃墟ビルに連れていき屋上から突き落として足を失うことで障害者となりその保険金で返済を済ませる。部品会社を経営する男は、多量の睡眠薬をお酒で飲んで自殺し、その男の母親のところに行ってもお金になるものがないことで室内で飼っていたウサギを持ってかえる。強引な取り立てをするガンドを悪魔のように呼ぶが、ミソンと出会い、母というものを知ることで徐々にガンドが変化していくのをみせているのだ。部品会社を経営する若い男は、ガンドが工場に現れたときに現在の借金を返済していないのに直ぐに借金の追加を要求する。妻が妊娠しており、生まれてくる子供の幸せを考えれば、借金返済の手段として障害者になってもよいと主張し、自ら腕をガンドに差し出す。腕がなくなればギターが弾けなくなるため、最後の演奏をする。ガンドはその男の心情を感じて、その男が今借金している保険金請求書を差し出したことで、その男の今の借金が無効になった。ガンドが工場から出た後に、その男はある考えを持って自ら腕を工作機械に突っ込む。
舞台となっているのは清渓川の零細な町工場が立ち並ぶ街で、その近くには高層ビルがそびえたって、対照的な形になっている。ガンドとある男が、その街の姿をみるところがあり、映像としてはっきりとみせている。まさに、資本主義の縮図を意味しているようにみえ、資本を持つ支配者と資本がない被支配者がソウルの街に存在しているのだ。ガンドは資本の手先という存在にして、資本がない被支配者から搾取していく形になっている。ガンド自身も債権業者に雇われていることから、彼自身も被支配者といってもよいだろう。
序盤のガンドとミソンと会ってからのガンドの違いをみせて、彼の混乱や恐怖というもので変化が生じてくるのだ。序盤では、動物の内臓が放置された風呂場を映し、生きている鶏をさばき煮込んで食べ、他人の苦痛は何も思わず、他人の家族に興味がなく、モンスターのようになっている。モンスターにも性欲が存在しており、夢精によって処理されており、女性を襲うという行為に至っていない。ミソンが現れて、鰻を食べずに水槽に入れてたり、奪い取ったウサギをそのままにしたり、動物を使うことでモンスターに異変が起こりだすのだ。ミソンの手料理を食べることによって、粗雑な食事が変化していき、母と名乗るミソンを性の対象として襲うことができるのかをみせている。モンスターが母性という力によって人間化していく姿をみせているのだ。今まで、ダーツボードに貼られた手書きの女の絵にナイフを刺しており、その絵をミソンの写真に変えたところ、今までにない行動をとっている。そして何よりも変わったことは、ミソンを母と思い込み、自身も守らなければならない家族ができたことである。
中盤あたりで、ミソンが何者であるのかがみえる仕組みになっている。冒頭の車椅子の男が首吊り自殺をするところが伏線になっており、冒頭から大きな仕掛けを仕込んでいるのだ。ある場所でミソンが号泣しているところは、泣き声が魂の叫びのように響いているのである。ミソンがガンドに対して様々な揺さぶりをかけて姿を暗ますことで、守るべき者ができたガンドをかく乱させていくのである。
アイテムとして手編みのセーターが大きな存在になっている。誕生日にケーキを買って二人で祝うが、ミソンがいつも編んでいた手編みのセーターがガンドに渡されないのである。何故、手編みのセーターがミソンからガンドに渡されなかったのかが終盤にわかるようになっており、終盤にその手編みのセーターをガンドが着ることで完全にモンスターから人間になり、他人の痛みを感じることが理解できるようになり、哀れみや慈悲から最後の行動に出ているのであろう。印象的なシーンとしては、廃墟ビルの正面に穴を掘り、三人が寝そべっているところがある。これから観る人がいるから、詳しくは述べることはできないが、その意味を観る人が各自で解釈できるからだ。
資本主義がテーマになっており、お金の意味をミソンが明確にガンドに言及しているシーンがある。全ての始まりであり終わりであることである。愛、名誉、嫉妬、復讐、死。このような単語を述べていくミソンは、これまでの経験とこれからの未来も含まれている。
キリスト教の思想がしっかり出ている作品で題名からもわかる。ピエタときいて思いついたのは、死んで十字架から降ろされたイエスキリストを抱く聖母マリアの聖母子像であった。ピエタについて、画家や彫刻家が様々な解釈を持って芸術作品を残している。ピエタという言葉自体の意味は、「慈悲を施して下さい」となっており、終盤にそのような出来事があり、納得できるところである。
【なめ犬的おすすめ度】 ★★★★★
【おまけ】
以前記事にした
キム・ギドク監督レポートを更新しました。
【追記】 2012.12.02
ガンドと部品会社を経営する若い男との記述部分を編集しました。